初期いくじれんニュースの変遷

2000.11 太田睦 作  

I期 '85〜'88, No.1〜No.19 労働闘争期
育児を巡る労働運動の当事者達の報告がコンスタントに続いていた時代。
II期 '89〜'90, No.20〜No.31 文化活動転換期
エッセイ・評論記事が充実してくる。例としてNo.20に出た安部さんのアグネス論争の評論が上げられるが、「育児の当事者」的視点から完全に離れたもの。
なお、アグネス論争をネタにして育時連はイベント「アグネス論争 花の外野席」を東京と関西で行い、それをきっかけに関西育時連を立ち上げ、さらに『半分こイズム』を出版し、記念イベント「修羅雪姫と7人の恋人たち」を行うなど文化活動が盛んになる。
労働運動の報告は継続している。
III期 '90〜'94, No.32〜No.51 サロン化・論争期
学生・子無しシングル等の新人増加。「育児と仕事」からテーマ拡散。
ワープロ化の影響か論客を輩出。主な論争として「インドネシア男女平等論争」(No.39〜No.47 中山、小野寺、金沢、渡辺、上船)、「フェミニズム批判論争」(No.41〜No.45 長野、味沢)、「シングルマザー論争」(No.44〜No.51 上船、竹中、渡辺、富永) いずれもフェミニズムの強い影響が見られる。
連載化・定例化コラムエッセイとして、中山さんの世界各地のレポートエッセイ、渡辺さんの連載エッセイ、田尻さんのコラム(例:No.47「私は女が好き」)など。
育時連自身の活動報告に加えて、各種イベント参加報告増大。労働運動の報告自体は後退。
 
94〜95年にニュースの発行が停滞。例会での停滞についてもNo.54「いくじれんの危機的現状について」(大塚、1995.5)がレポート。この後、『育児で会社を休むような男たち』の出版を契機にして活動の巻き直しが図られ、いくじれんニュースも竹中編集長による第IV期に突入するが、概ね第III期の路線を継承。ただし、テーマ拡散は抑制。華々しい論争もこれといって現れず。

個人的育時連史

2000.11 太田睦 作  

注:私が参加した育時連の活動には偏りがあり、これをもって育時連全体の活動として見る事はやめてください。
1992.2〜4 育児休職
1992.10 『男も育児休職』上梓、育時連へ献本
1992.12 育時連忘年会に参加
1993.2 迫江市女性フォーラム参加
1994〜1995 育時連編『育児で会社を休むような男たち』の出版作業に参加
1995.6 同出版
1995.7 出版記念合宿、子連れ参加
1996.1 インターネット計画スタート、同報メールで活動
1996.8 「いくじれんホームページ(EQG-HP)」公開
「いくじれんメーリングリスト(EQG-ML)」スタート
以後、メンテ業務と雑談に没頭
1996.8 「架空対談」掲載。何故かウケて連載化されて今に続く
育時連活動や特定個人への揶揄が続くこの記事に対して編集長から毎回原稿が要求されるのかは未だに不思議
1998.5 いわゆる、例会vs.ML論争
参考資料の育時連運営の基本方針を再確認する
1998.7 プロジェクト「参院選アンケート」にほんのちょこっと参加
1998.9 「メンズフェスティバル'98 in 東京」お父さんの育児室に参加
1999.4 厚生省少子化対策キャンペーンに対して自由党が抗議
先の選挙アンケートに絡めて公開質問状を出す
国会議員相手の規模の小さな政治活動をやってみる
1999.6 「父の日シンポ「育児をしない男を父とは呼ばない」キャンペーンを越えて」に保育係で参加
2000.2 ブレア・プロジェクト。英国首相に手紙を書いて出すという「文化活動」の典型を提案してやってみる
2000.2 シンポジウム「いま求められる『父性』とは何か?」パネラー

2000.11.23 育時連20周年記念シンポジウム「男も女も育児も!仕事も!の20年と今後」資料
第1部 リレートーク「育時連の創成期から現在を振り返って」


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