育時連史前半についてのメモ

ますのきよし  

80年 6月22日 「シンポジウム 労基法改悪反対! 男も女も育児時間を!」が事実上のスタート。(これは4月19日以降3回行われた準備会で下拵え)♂15♀16参加
80年 6月26日 労働省課長補佐に10人で面会。「労基研報告に対し、女性団体から意見はたびたび聞いたが、男から育児時間の必要を指摘されたのは初めて」と回答していたが、その後、労働省が行った1万社の企業アンケートに「男の育児時間」を聞く項目が入り、90社が「認めている」と回答。有効打だったと推測できる。
81年12月 パンフ1号発売。マスコミで紹介され翌3月までに1000部完売。全国から反響(「交流」105号収録)。
83年 1月 1月からシェル本社の会議室を昼休みだけ、労組に借りてもらって月1回の例会を定例化。84年夏まで「シェル時代」が続く。
それまでの例会は、中野区や渋谷区の施設を夜借りていたが出席率が悪かった。定例化で、組織らしくなった反面、都心で働く人以外は参加できず、メンバーが限定される。
83年 5月 毎年メーデーにはビラ配りしているが、例えば、この年の参加者は大人9人、子ども4人、ビラ1000枚の記録がある。おおむねこんな感じだった。
84年 2月 「のばせば悲鳴、ちぢめればゆとり」集会、約80人参加。
84年 6月 パンフ2号 2000部完売。
84年 9月 この頃、シェルが使えなくなり、活動停滞。
しかし、ある朝、主要新聞1面トップに「田無市で男の育児時間条例案」の見出し。反発する「週刊新潮」「週刊文春」などの揶揄的記事も多かったが、これで育時連に活気蘇る。
85年 3月10日 田無集会。定員100名の会場に参加者167人。ゲスト:樋口恵子、中西珠子。
勢いに乗り、隔月でニュースの発行開始。順番持ち回り編集者方式。例会も、御茶の水ルノワールで夜開催することになり、一般市民の参加が可能になった。(90年10月以後は九段社会教育会館)
田尻さんが例会に来るようになったのは、ルノワール時代。(いつも無精ひげなので「マスコミに出たりするんだから、少しおしゃれすれば?」とますのが言うと、「そういう干渉されるのは大嫌い」と答えていた。でも、その後、イッセイミヤケのバーゲンに行くなど、おしゃれするようになった)
86年 4月 伊豆山で合宿。
86年11月 パンフ3号完売。
87年 1月31日 「トークナウ 育児時間」ゲスト:毛利子来、岡崎勝。参加者62人、うち♂18。
88年 2月 6日 「越えられるか このハードル 仕事、昇進、育児」ゲスト:林郁。この頃、OKさんデビュー?
88年 3月 3月頃から「禁児車」やアグネス真理子論争始まる。
88年 7月16日 「アグネス×林真理子論争 花の外野席」参加者71人、うち♂16。
なお、「育時連クーデタ未遂」もこの頃。シェルのOSさんは、シングルだが、アグネス無条件支持派。ますのは、「子連れは支持。母性主義反対」で意見対立。ますのが7月16日向けに書いたコントは「アグネスに対して批判的なのは×」と、OSさんが反対し、上演不可となる(この台本をベースに上野千鶴子さんが関西で上演した)。この時期、OSさんは、ますの以外の男を喫茶店に集め「反ますの」を説いたようだが、男たちは賛同しなかったらしい。これがウワサの「クーデタ未遂」。集会では、無難に司会をつとめたOSさんだったが、その後は例会に来なくなった。が、外部の講演会では、「育時連」の肩書きを使っていた。「子どもは嫌い」と言っていたOSさんが、なぜ「アグネス無条件支持派」になったのか、今でもよく分からない。
88年12月11日 「日本女性学研究会」と育時連の共催により、京都で「関西版 花の外野席」。集会後、同じ会場で「関西育時連」準備会を立ち上げた。(後に味沢さんが「関西育時連は、上野さんが母、ますのさんが父」と表現したのは、そういう経過のため)
89年10月 『男と女で[半分こ]イズム』出版。
90年 1月13日 京都で、育時連の東西交流合宿。
90年10月 10月より、九段社会教育会館で例会。「九段時代」始まる。
この年、田尻さんの『父さんは自転車にのって』出版。
92年 2月15日 「男もとれる育児休業 えーっ そんなこと言ったって」参加♂24人、♀41人。寸劇上演(多彩な出演者だったなぁ)
92年 5月16日 名古屋で全国交流合宿、39人参加。
ますのはこの年の初めから「今年いっぱいで引退」を表明。(トラブルの発生した合宿は、その翌年のこと)

2000.11.23 育時連20周年記念シンポジウム「男も女も育児も!仕事も!の20年と今後」資料
第1部 リレートーク「育時連の創成期から現在を振り返って」


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