ポスト・シンポ放談
「いま、父性が求められるのはなぜ?」

古川玲子(F)×中谷文美(N)

付記:2月13日のシンポジウム(「いま求められる“父性”とは何か?」)でタイトルに掲げたにもかかわらず、正面から取り上げなかった「父性」の問題をめぐって、勝手に名乗りを上げたこの二人が過日、都内某所で語り合いました。育時連メ―リングリストでの議論の内容にも勝手に触れていますが、わたしたちの父性談義が、育時連としての見解を代表するものではないことは申すまでもありません。

 父性シンポが「父親の子育てシンポ」になったわけ ◇

N:
最初に、シンポジウム企画の舞台裏についてお聞きしたいのですが。
 
F:
もともとは、林道義さんの「父性の復権」に対してとんでもないよねという反応が育時連メンバーの中で盛り上がり、林さんを呼んできて直接バトルしよう、という話になったんです。だから、初めに千代田区に企画を提出したときは、林さんともう一人林さんに反対する立場の人を呼んでくる、という筋立てになっていました。その後、最初から反論するための場に林さんを引っ張り出すのは失礼じゃないか、とか、そもそも議論にならないんじゃないか、という意見も出てきたのでその企画は変更になって、当初の、父性についてシンポをやるというセンだけは残ったのです。
 
N:
林さんの著作をめぐるメーリングリスト(以下、MLと略)での議論は、98年の11月に始まっています。ということは、1年以上経っても父性に関する議論は下火にはならなかった、父性論議へのニーズは根強く残っているということでしょうか。ここしばらくの一連の事件との絡み、母子カプセル、あるいは母子密着型の親子関係が問題視される中で、メディアに出る学識者のコメントの中に父性の喪失、といった言葉が出てきていますね。
 
F:
最初はその「父性」を真っ正面から考えるシンポを考えていたのですが、最終的には内容として「父性」という言葉の使用をあえて避け、「父親の子育て」ということで行きましょう、ということにしました。MLでの議論を通じて、抽象概念としての「父性」や「母性」について話しても聞いているほうは父親・母親の果たすべき役割として置き換えて理解してしまうだろうと判断し、混乱を避けるために方針変更しました。概念としての父性と、実際の父親の姿とを頭の中で切り替えながら聞くのはかなり難しいことですから。
 
でも広報の変更ができなかったために、「父性」の話を聞こうと思って来てくださった来場者の方には大変申し訳なかったと思います。だからこの対談では「父性」の話をたっぷりしたいと思ってます。
 

 父性・母性 と 父親・母親 ◇

N:
そもそも母性的なもの、父性的なものという概念が何なのか、といった議論があります。いままでの母性・父性二元論の不毛性については、MLで沼崎一郎さんなども指摘されています。「親としての役割」の呼び方としては、これまで「親性」とか、大日向雅美さんから「育児性」、原ひろ子さん、舘かおるさんたちからは「次世代育成力」などが提案されていますが、どう思われますか。
 
F:
「親性」「育児性」「次世代育成力」というのは総合的な「育てる力」を表す言葉だと思うけど、「父性」「母性」は、育てる力の中にある違った指向要素を区別してとらえるための言葉と私は認識しています。総合的概念があれば要素概念は不要ってことはないでしょう。育てる場面に必要な能力が一種類でないことは皆感じていることだと思うし。
 
父性という言葉の代替としては、私はMLで出ていた「構成力」あるいは「導き、指し示す力」という言葉がジェンダーフリーで使いやすいと感じています。
 
N:
沢山美果子さんによれば、1910年代から20年代に日本の都市に台頭してきた新中間層に母性という言葉が最初に浸透していったということなんですが、この母性というのは、母たるべき者の機能+本性という意味なのだと沢山さんは説明しています。この説明に従えば、母性や父性という言葉から、生身の人間である母親や父親が切り離しがたいのは無理もないと思えます。もうひとつの大きな問題は、母性や父性は本性として当然あるべきものという考え方とどうしてもリンクしてしまうことですね。
 
F:
林道義さんもすぐ母性本能という言葉を使いますね。私に言わせれば、環境や教育なしでは発現しないと自ら認めているものを「本能」という名で呼ぶのは全く間違っている。
 
N:
シンポの内容に引きつけていうと、毛利子来さんは父性という言葉自体はあっさり退けてしまったけれど、女と男の違いというものにはこだわっていらっしゃいましたね。たとえば、なぜ母親があれほどまでに育児にのめりこんでしまうのかという問題に対して、やはり女であることから来るのではないかと再三指摘なさっていました。それに対して他のパネリストからは、それは女が他に自分をアイデンティファイしたり、拠って立つものを持ちにくい現状があるからではないか、という指摘がされましたが、毛利さんご自身はその説明では納得されていないと思います。この点についてはどう思います?
 
F:
女が食うための戦いの場から引き離され隔離されがちだという現状の影響がもちろん大きいと思うけど、それがすべてだと言い切るつもりはありません。子どもに対する接し方の中で男と女の違いというのは当然あるんじゃないかと思います。その差があってはいけないと思わないし、ありうると思います。
 
N:
子どもに対して父親が一人、母親が一人いたとすると、その二人の個人が役割や距離感の点で子どもにとって全く同一の存在になることはあり得ないと私も思います。ですが、究極的には、子育ての場面で男と女の間に本質的な違いがあるかないかが問題ではないと思うんですよ。本当に子育てに関して男女の決定的な違いがあるかどうかについては、私は今のところ肯定も否定もできないのですが、仮にそういうものがあったとしても、問題なのはそれを言説のレベルでふくらませて絶対化・本質化してしまうことなんじゃないでしょうか。母親は身近にいて抱きしめてやる存在、父親は距離を置いて折に触れて適切な助言を与える存在、といった理想型ができあがって一人歩きすると、そこからこぼれ落ちていく無数の父親と母親の組み合わせが問題視されてしまう。この構造自体が問題でしょう。
 
F:
お父さんとお母さんに違いがあるとしても、だからって「型」を作ってみんなをそれにあてはめる必要性なんかないだろう、ということですね。
 

 問題は母親が育てることではなく、一人で育てること ◇

N:
父性の復権や回復といった議論が出てくる背景に、母子関係だけで育まれた子どもが問題を起こす、という議論があると思いますが、それは母親だけが子どもを育てたから出てくる問題なのか。むしろ、一人の人間だけが子どもを育てたから発生する問題、といえるんじゃないか。しかもその一人の人間が世の中の母性イデオロギーにからめとられ、追いつめられながら子どもに必死で向き合って、毛利さんの言葉を借りれば「のめり込んで」育てるという状況こそが問題なのではないでしょうか。
 
F:
私もそう思います。
 
N:
そうだとすると、閉じたカプセルを作ってしまっている母子関係に引き込むべき人間というのは、父権的な父親としての男性である必要はないわけです。現実的には日本の多くの核家族において、欠けている、存在が見えなくなっているのは父親だということになるのですが、その父親が母親以上に「母親的な」存在であってもいいし、あるいはおじいちゃんやおばあちゃん、地域の人といったその他の他者がかかわってくるということでもいい。母親以外の人がかかわってくることで、今の「一人の人間だけが子供を育てる」ことから発生する問題は解消の方向に向かう可能性があるわけです。
 
F:
母子カプセルの問題は、母親が子どもと一緒にカプセルに入って暮らすことを社会的に認められ、許されることから端を発しています。女にとっては子育てだけに没頭することが社会的に「悪」ではない。
 
N:
むしろ賞揚されてきましたよね、今までは。だから、たとえば毛利さんが、とにかく力をぬいて、これだけは押さえておくべきといったツボさえもない、という形で「のめり込むこと」を避ける育児を提案される背景には、母親が肩の力を抜くことで、誰かが入って来ざるを得ない、あるいは子どもの方から誰か他の人にケアを求めるような状況を作りだせるという考え方があると思うんです。そうやっていろんな人がかかわってぐちゃぐちゃやって行くほうが、少なくとも今よりはいい育児環境を作れるということでしょう。
 
F:
破れ目を意識的に作っておく。完璧にやっちゃうと親も子も息苦しいから。破れ目も1ヵ所でなくて2ヵ所くらいは穴を開けておくほうが風が通っていいですね。その風は保育園だったり、地域の人だったり、親類の人だったり、いろいろだと思いますが。
 
N:
私自身が子育ての中でこれだけは、と意識してやってきたことは、いかに自分を子どもにとって絶対的な存在にしないようにするか、ということなんです。子どもが自分だけを見てくれる、自分にすがりついてくれる、といった、排他的な二者関係への自己満足というのはどうしてもあるわけだけど、なるべくそういう関係に陥らないように気をつけてきた部分があります。それは子どもになるべくいろんな人との出会いを用意するということでもある。手始めはもちろん父親ですが、おじいちゃん、おばあちゃんとの関係もそうだし、それから私たちの生活が現実に回って行くためには保育園やベビーシッターさんといった形で子どもにかかわってもらう存在が物理的に必要です。そうやって子どもにとってはどの関係もとっても大事、といえるような出会いやかかわりをたくさん用意するということだけはやってきました。でも、もしわたしが専業主婦だったら、同じことができたかな、と思うとそれは疑問ですね。専業主婦なのに他人の手を借りるのかという大義名分の問題もあるし、自分自身の存在意義を問われてしまう、という部分もあるかもしれない。
 
F:
私にとって仕事を続けることは、「意識的に破れ目を作る」一つの手段でもあります。私はのめり込みやすいタチなので、すべてを子どもに賭けて子育てにのめり込んでしまったら子どもにとってどんなBADマザーになるか自分でもよく分かっていた。仕事の存在により物理的に距離を取ることで自分の心や親子の関係を調整している部分は大いにあります。思いっきりかわいがっても歯止めがあるから安心、みたいな。24時間そばにいて子どもだけを見つめ続けられる環境というのは実は要注意。いじめるとかじゃなくて、配慮しすぎる、見つめすぎるというのも子どもにとって毒だと思うんですね。ところがいい加減なところでほっぽらかしてそだてるという昔なら当たり前に出来たことが現代では簡単にはいかない。専業主婦で子どもと適切な距離を保ってらっしゃるお母さん方を見るとそのバランス感覚はすごいなと思います。逆にのめり込んでるお母さんを見るととても痛ましいですね。いくら口で「のめり込まないで」といっても、言葉が届かないんです。本人は本当に一生懸命だから。そういうときはとても難しさを感じます。
 

 我が家の子どもだけでなく ◇

F:
育時連の父親メンバーたちは、構えていないところがいいですよね。若い人たちはそういう人が多いのかな。
 
N:
構えていない、というのはたしかにあるかもしれません。子どもが通っている保育園でも、お父さんたちの存在感はかなり大きいです。それ以上に、夫婦関係のダイナミズムというか、パートナーシップを築いてきた夫婦の歴史というものがそれぞれにあるわけですよね。その行きつく先が、夫も妻も、ともに子どもを産み、育てるという部分じゃないかと思います。それから、私が育時連の例会に行って、すごくいいな、と思ったり、違和感がなかったりするのは、他人の子どもも可愛がるでしょう、みんな。自分の子どももよその子どもも一緒にわいわいやっているときに、どっちに対してもちゃんと目が向く人が多いと思います。これは大日向雅美さんがおっしゃっていることですが、父だから母だから、あるいは子どもを産んだからとか産まないからということで子育てにかかわるのではなく、自分の子どもを持たない人も含めて社会の人みんなが子どもという存在に関心を寄せるような社会になっていかなければ、今いわれているような問題は解決しないんじゃないかということなんです。私はこのあたりに全面的に共感します。ですから、子どもって面白いな、とみんなが思えるような環境を築く方向で考えるのであれば、ことさらに父性や母性を持ち出す必要はないのではないか、とも思うのですが。
 
F:
少なくとも、父と母でやりきらなくちゃいけない、ってことはなくなるわけですね。昔はしつけも、家庭の中だけでやっていたわけではないし、家の中でやりきろうとするところに無理があるのかな、と思います。
 

 「脱力子育て」の裏と表 ◇

F:
シンポのとき会場からの質問の中で、「(親が)ただ自然に、自分に正直に、っていうだけでいいんですか」というのがありましたけど、それに対するパネリストからの解答は、「それでいいんです」(笑)でしたよね。でも、これは実はトリッキーな応答で、答えはイエスでもあり、ノーでもある。配偶者や子どもを含む回りの人にきちんと向き合っていくことが自分にとって心地よいという人と、それはうっとうしいだけで自分の好きなようにすることだけが大事という人とでは「自分に正直に」の結果は当然違ってきます。育時連のああいうシンポでしゃべっている人の場合、家族ときっちり向き合って自分の価値観の伝授(押しつけ?)もちゃんと子どもに対してやっているということを見落としちゃいけない。
 
N:
つまり、だまされてはいけない(笑)。へらへらっと脱力しているようでも、実は芯が定まっている、ということですか。でもね、その芯というのは、定義はできないんですよね。それぞれの生きざまの中で培われてきたものでしょうし。
 
F:
斎藤学さんの指摘ですが、子どもが病理を発症しがちな家庭の中に「理想的家族」というパターンがある。このタイプの家族ではお母さん役割子ども役割というのが肥大化していて、お母さんや子ども自身の中身が空洞のようになっているというんですね。
 
N:
母親役割を演じる人と子ども役割を演じる人が、理想化された役割の外延同士で向かい合っている、みたいな感じですね。
 
F:
そうです。だから、自分というものを肯定的に抱えている人が「自然に」「自分に正直に行こうよ」と言うのは簡単だけど、小さい頃から役割を果たすことが正しいこと、と思い込んで人格形成して「自分」がないような状態だと「自分が大事」と言われてもとまどっちゃう。
 
N:
外側の役割の部分を無理矢理はがされちゃうと困るわけですね。そうすると今までの役割を否定したりはがしたりしても、また別の役割をモデルとして求めることになる。
 
F:
でも育時連の○○さんのやり方をそっくりそのまま型として受け容れてしまったら、それもまた違うんだよね。
 
N:
とりあえず誰かの型を拝借して、それにはまってみて、その型が窮屈だったり、自分に合わないなあと感じたところで、ちょっと脱いでみたり、型のほうをいじって変えてしまったりできるようだったら、いいんでしょうけど。
 
F:
私は子どもを今育てている大人として子どもに伝えておきたい、伝えておくべきことがある、と思っています。「押さえるツボすらない自然体で」などと言っても、「自分」を持つ一人の人間として子どもと日々向きあえば、やっていいこと悪いことを自分の考えで伝えて行かざるを得ない。それが「客観的に正しいこと」だと証明されてなくても伝えて行かざるを得ない。母親だろうと父親だろうとね。ただ子どもと仲良し友達になるだけなら大人である親なんかいらないんじゃないかと思う。そしていつか、親の「抱きしめる力」はその腕を振り払われ、「指し示す力」はこてんぱんに否定されることになるでしょう。それが子どもが大人になるということだから。拒否され乗り越えられる事もまた親の大切な役目。拒否されることを恐れて「ものわかりのイイ先輩」を演じたり、拒否しようとする子どもの腕を愛という真綿でくるんだり親という権威でへし折ろうとするのでは、子どもの育つ力が萎えてしまう。
 
N:
たしかに、親の姿勢は見せて行くべきでしょうね。
 
F:
シンポで脱力育児の話をしていた山本さんも、実は「あれもこれもあっていい…けど、自分はこれを断固として選ぶっ」という人だし。まったく育時連のパフォーマーにだまされちゃいけないぞ。
 

 「父性」あらため「構成力」について ◇

N:
構成力、という概念についてですが、MLでは賀茂美則さんが、「自分が置かれた位置を含めて、世の中の仕組みを理解し、自分を客観的に見る能力」と説明されていましたね。この構成力なるものが、本質的に父親(つまり男性)だけに備わっているとは私には思えません。しかし、構成力を発揮するための要件、というようなものはあって、それは子どもとの距離感ではないかと思うんですが、いかがでしょうか。母親が家にいて日常的に子どもの世話をしているとしたら、そういう存在である母親に構成力を同時にもってもらうのは難しい、だから、現実的に子どもとの距離を置いた状態にある父親にそれを求めるという話の流れになっていくのではないですか。
 
F:
私の考えでは、構成力は関係性に基づくものではなくある種の能力です。関係が近くても、構成力を身につけた人だったら、適宜それを発揮できると思うんです。今、子育ての中に父性が欠けているといいますが、それは育てる立場の者が構成力をスポイルされていくような社会状況があるということではないでしょうか。
 
N:
では、その力はどうすれば持てるんでしょうか。職業に就くということと関係しますか?
 
F:
仕事をしていれば誰もが構成力豊かだ、ということはないでしょうけど、職場は構成力を養う重要な場ではありますね。家庭や地域の中でも、子どものほかに二人以上の人間がいて、お互いに自分を持ちつつきちんと向かい合おうとしたら、人間関係や問題解決は複雑になり視点は多面的にならざるをえず、構成力の必要性は増します。ところが、女は女の世界、たとえば家庭、男は職場という世界、というふうに、また各家庭内はそれぞれ独立国家で干渉しあわない、というふうに、それぞれの領域だけを守備範囲とし相手の世界には干渉しないことになっていたら、構成力を必要とするような人間関係や問題は育まれない。構成力が非常に幼い段階のままでも日々が過ごせてしまう。母子カプセルの恐いところは、自分より圧倒的に幼く弱い者とのみ集中的に向き合う暮らしの中で、ケア力が向上していく代わりに今まで大人として持っていた構成力が衰えていってしまうことでしょう。「母親の子育てが悪い。もっとちゃんと育てよ」と圧力をかければかけるほど、母親は必死に子どもを見つめ、何一つ見落とすまいとして、結果としてカプセル化を強めてしまうことになる。母親の子育てをうんぬんする人は、そのあたりについてもっと自覚的になる必要があると思います。
 
N:
それから、何らかの形で、今自分が置かれている立場や役割をずらしてみる時間や機会が持てるかどうかということも大きいのではありませんか。「今、ここ」にある自分がすべてでそれ以外の自分はあり得ない、といった状況は、構成力というものを培ったり発揮したりする場面とは程遠い気がします。ですから何を契機としてその自分の位置のずらしができるのか、という問題は、たとえば今子育て中の母親たちにとって大きいと思いますが。
 
F:
複数の視点・立場を想起し得るということは構成力の最も重要なポイントだと思います。職業でも他のことでも、子育て以外の自分の世界を確保して「お母さんとしての私」以外の顔を持つことはとても大切ですね。ただ、職業を持っていればなんとか利用可能な保育園という良いシステムが、それ以外の場合はまだまだ制度的にも金銭的にも利用しにくいという困難があります。
 

 「構成力」を発揮するということ ◇

F:
ところでお父さんの方は働いている人が大部分だと思いますが、職場で構成力や調整力を発揮しているのに、それを家に持ち帰れない人が多いのはとても不思議ですね。家に帰ると自分も甘えた子どもか子どもっぽい暴君になってしまう。その状態で気が向いたときだけ出てきてコーチぶる、というやり方では、子育てにおける構成力の発揮はおぼつかないですね。
 
N:
自分がどれだけ当事者として向き合うかという問題もありますね。たとえば「お受験」の問題に関して、母親がやっきになって自分も子どもも駆り立てている場合、父親が第三者として介入して、「そこまでやらなくてもいいじゃないか」と母親を諭したり軌道修正をしようとしても、そういうふうに言うだけでは追いつめられた母親にとっての解決にはならない。つまり、外野席からもの申すだけで父性は事足れりというわけではないのです。もう一人の親として、自分は子どもの教育をどう考えるのか、他にどんな道筋があるのか、という代案を示して行く必要があるでしょう。
 
F:
そうでないと、あなたはわかっていない、しょせん他人事じゃない、ということで終わってしまいますよね。林さんの本のなかに、電車の中でぺちゃくちゃおしゃべりをしている男の子たちがけしからんというくだりがあるんです。そうならないために林氏は、母親と子供たちが家の中でぺちゃくちゃおしゃべりをしている時に父親が「くだらない話をするな」といえばいい、というんですけど、そんな安易なことで意味があるんですか、といいたいですね。
 
N:
そもそも男の子のおしゃべりがなぜ問題か、というのもありますけど。父性の復権論議の問題の一つは、父性を取り戻せ、父親よ家庭に戻れ、というメッセージを仮に受け容れたとしても、その「戻り方」のマニュアルとして提示されているものの中身がかなり安易な点ですね。年頭の挨拶を始めとして、年中行事のたびに存在感を示せ、折に触れて男とは何か、社会人の責任とは何かについて語れ、とか。その通りにして効果はあるのか、という疑問があります。
 
F:
そのレベルで事足れりというなら、父性ってずいぶん簡単なものってことになりますね。あの安易さを見ていると、子育ての複雑さを見くびっているなぁとため息が出てしまいます。あれだけ安易な提案がなぜ受け入れられるかというと、子育てなんてその程度の安易なもので対応可能だという見くびりが社会の中にあるのでしょう。
 

 父性の復権はなぜうける? ◇

F:
なぜ今一連の父性論議が受けているのか、という背景説明として、今まで会社人間だった男たちがリストラや倒産でだんだん会社にアイデンティティを求めにくくなってきて、それより家庭に戻って「お父さん」と讃えてもらおうと思い始めたからだ、というのがどこかの雑誌に載っていて面白いと思いました。
 
N:
家庭の中に居場所をなくして、はじき出されていた父親からの、家族に対するラブコールかもしれないですね。もっと自分に振り向いて、という。
 
それとは別に、私が父性論、父親論をいろいろ読みあさった中でこれはちょっと面白いなと思ったのは、大企業に勤務するビジネスマン向けに、いかに子育てにかかわるべきかということを説いたいくつかの本です。相手は「有能なビジネスマン」ですから、妻は専業主婦、という想定に一応なっています。その想定の下でなぜ男が育児にかかわらなければならないかというと、それはビジネス戦略の一環としてなんです。職場に進出した女性たちが「女性ならではの感性」を生かした商品を開発してヒットさせている。よって、男性も消費者である女性たちのニーズをとらえた商品開発をするために生活経験を高めなくてはならない、と。
 
同時に、勤務時間短縮、余暇拡大という時代の流れの中で、家庭に居場所を求めざるを得ないという現実的な理由もたしかにあるわけです。このあたりに「できる男は家事・育児もできる」という路線が成立していく芽があります。ただしこの文脈でも、「細々したことは母親に任せて、プロデューサーの腕を磨け」といったメッセージが出てくることで、従来の父性論ともリンクしていきます。
 
F:
たしかに私も子育てをしていることで自分の仕事にいい影響を与えている部分が確実にあると思うので、男の人たちが仕事だけの人生を送っているのは彼ら自身にとってすごくもったいないと思っています。でも、プロデューサー役では得られないところに一番いいものがあるんだけどな。寝かしつけていて、やっと寝てくれたときに感じる子どもの身体の重みとあったかさとか、それがビジネスに役に立つのかどうかという視点だけでは測れないものが。
 
N:
そう。ビジネス戦略路線で「いいとこどり」をしようとしているんだけど、でも「いいとこどり」をしようと思ってると一番いいところを取り損なってしまう。
 
今のところはまだ生活時間の大部分が職場に費やされているけれど、同時に子どもの父親として何らかの存在感や役割を示したい、示さなくてはならないと思っている。そういう男性にとってのとりあえずの解決策が、父性の復権であったり、父性回帰であったりするのではないでしょうか。
 
F:
それなら今までの「男」を捨てないままでやりやすい、ということですね。でもそこにはパラダイム転換がないから、実は革新的なところはゲットできないんだ。
 
父性の復権路線を、母親は望んでいるのか、という問題についてはどう思いますか。
 
N:
あえて一般化して言えば、意外に望んでいるかもしれないですね。林さんは育児雑誌などにも登場しているんですが、母親と子どもだけの閉塞した空間に、もっと父親がかかわるべきだという部分では、とりあえず母親は反感はもちませんよね。そこで続けて,赤ちゃんの細々したケアの部分は、あなたたちお母さんの領域なんですよ、仕事で忙しい父親はそこには手を出さなくてもいいんですよ、とくる。このふたつのメッセージの組み合わせは、少なくとも専業主婦のお母さんたちにとっては歓迎すべきものかもしれない。夫からの精神的サポートさえ得られない状況で、子育ての第一責任者とされている状態はしんどいと思っていても、母親としての自分の責任領域を全部手放したいと思っている人はあまりいないでしょう。つまり、全面的な領空侵犯ではない、部分的な育児参加のほうが母親にとって受け容れやすい、ということです。
 
F:
ヘルプはして欲しいけど、自分のアイデンティティとしての「育児主担当」という職場は確保しておきたいということですね。
 

 父親の「本来の姿」? ◇

F:
小谷野敦さんだったと思うんだけど,産む母と生まれる子はワンセットで、父親はボヘミアンだと。母子は生物的につながっているけど父親は文化的装置でしかない。だから、父親が母親と同質に子どもに関わるべきかどうかについては議論の余地があるんじゃないの、という言い方をしていました。私は賛成しないけど、こういう話の持って行き方もアリかな、とは思いましたね。
 
N:
でも、それは非常に古典的な生物学的決定論ですね。本来の姿っていっても、どうやって決めるんでしょう。人類の歴史とか、霊長類からの進化、という問題としてはあると思うけれど、それが本来の姿といえるのかどうか。
 
F:
少なくともそれを今からめざすべきかどうかというのは、今の私たちが決める問題ですね。共同体でなく母が子を育てるという装置も実は新しいんですよね。その装置を作りなおすにあたっては、今までのいきさつに必ずしも囚われる必要はないと。
 
N:
今までのいきさつというのは、要するに議論をする人が、どんなメッセージを相手に伝えたいかによって、いきさつの中のどの部分を取り出してくるかというのがあるわけです。たとえば母性という概念がいつ頃定着したのかとか、子育てが核家族化したのはいつか、といったことを押さえておく必要はあると思います。でも、昔は今とは違ったんだといっても、では「昔」のどこを指すのか。
 
前はこうだったんだから、というふうに議論を展開するよりも、今与えられた状況の中で問題があると感じるんだったら、それをどうしていけばもっと居心地のいい状況にしていけるのか、というふうに話を持っていったほうがずっといいのでは。

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