EQG HOME > ライブラリ > 夫婦でする子育て | 第4章←◇→おわりに |
第5章 ジェンダー現代日本の家事・育児事情を語る上で、性別役割分業の問題は重要な鍵となる。本研究の対象者たちは、今問い直されつつあるこの伝統的な性別役割分業を打ち破り、ふたりで働きながらふたりで家事・育児をするという、最も新しい分業の生活スタイルを持つ夫婦である。前章までは、主に彼らの実体験の語りをもとに、この新しい分業のあり方について詳しく分析してきたが、彼らが家事・育児に対してどのような考え方を持っているのかということについては触れてこなかった。彼らが選んだのは、トランス・ジェンダー(=性別越境)な生き方とも表現できるが、彼らは自分たちが選んだ生活スタイルや、伝統的な性別役割分業に対してどのような考えを持っているのだろうか。本章では、新しい分業で生活する彼らの、家事・育児に対する考え方や意識について、ジェンダー的視点から考察していくこととする。 第1節 家事・育児に対する認識まず、この節では、本研究の対象者たちが家事・育児を自分の仕事として認識しているのか、また妻は家事・育児のために夫に会社を休ませることに対してどのような意識をもっているのかなど、特に「夫が家事・育児をすること」に関して起こりうるお互いの意識を探っていく。 (1) 家事・育児は自分の仕事本研究の対象者たちは、性別に関係なく夫も妻も家事・育児を分担・共同しているわけだが、お互いに家事・育児は自分のすべきこと、自分の仕事として認識しているのだろうか。質問をしてみたところ、言うまでもなく妻たちからは「しています」という返答が返ってきた。同じく夫たちもみな「しています」という返答だったが、その一方で次のように語った。
ケース1もケース2も夫は、家事・育児をすることを自分の「義務」だと述べている。このことから、本研究の対象者の夫たちが、家事・育児を自分のすべきこと以上に、自分がやらなければならないこととして強く認識していることが分かる。また、この「義務」は「やれる人間がやる」ことだと述べ、全てを妻に押し付ける形となっている日本の性別役割の現状に対して批判的な考えを示している。夫たちはみな、家事・育児は生きていく上で必要な仕事であり、夫とか妻である以前に親としてやらなければならない当然の「義務」だと認識しており、一般的に家庭の中で妻が家事・育児に対して抱いている意識と同じ考え方を持っているのだということがいえる。この点で、彼らが一般の日本男性の意識とは大きく違うことが分かる。しかし、「義務」という言葉からも分かるように、彼らは決して職業より家庭を第一に考えるマイホーム型だから、好き好んで家事・育児をしているというわけではないのである。前にも述べたとおり、彼らはみんな仕事に熱心に取り組んでいる人たちばかりで、忙しい時間を割いて家事・育児をしている。「やりたくてやってる、って意識はないなぁ」と述べていることからも、彼らが家事・育児を逃げることのできないものと感じており、やりたくないからやらなくていい、妻に任せておけばいいというものではないと考えていることが分かる。彼らにとって家事・育児とは、やりたくなくてもやらなければならない「義務」なのである。 そうは言うものの、多少なりとも夫は「妻のやるべきことを手伝っているという感覚」や、妻は「自分のすべきことを夫に手伝ってもらっている感覚」があるのではないかと思いさらに問いかけてみた。
夫が家事・育児をしてよかったことに「私の負担が減ったこと」と回答したケース2の妻は、それは「単に労働の総量が減ったという意味」でしかなく、自分のすべきことを夫にやってもらっているという感覚はないという。同時に夫も、「できるほうがやっているだけ」と述べ、妻のやるべきことを自分が手伝っているという感覚はないという。一般的には、よく家事・育児をしている夫でも、多くは手伝うという域からは抜け出せず、どこかに妻が主体という意識があるものだが、彼らは、完全にお互いが家事・育児の主体となって生活していることが分かる。特にケース2の夫は育休経験者でもあり、現在でも育児に関しては夫のほうが多く関わっているということから、その意識が強いものと思われる。 しかし、対象者の中で一番若いケース3は次のように語る。
妻のやるべきことを手伝っているという感覚は「ない」ときっぱり言う夫に対して、妻は「最初のうちは、そのほうがうまくいってたかな」と、夫に手伝ってもらっているという感覚が少しあったと語る。ふたりで家事・育児という生活がまだそれほど長くはないケース3では、初めの頃の家事・育児に対する夫婦の意識の違いが会話の中に表れているようにみえるが、中でも妻は、本音と建前の間での葛藤があるようである。「本音では、二人とも働いているんだから、家事を分担するのは当たり前」と思っているんだけれども、「表面的にはお願い」という感じでやっていたという。それは夫の反発を回避しての行動だと述べているが、3章のきっかけのところでも妻が夫に家事・育児を教え込むということがあったが、やはり初めのうちは、妻が一歩上に立って意図的に家事・育児をする夫にさせているという背景があるので、意識の中でも、夫は気づかない妻の考えというものがあるのであろう。ただ、「今はないと思うけど」と述べているように、その感覚は徐々に消えていくことが分かる。つまり、夫婦がお互いに家事・育児の主体となっていたケース2も、おそらく初めの頃は、妻の中に「お願い」という感覚があったのではないかと考えられる。 (2) 夫が仕事を休むこと子供が病気になったときなど、一次的に保育園からの連絡を受けるのは妻である場合が多いため、夫は妻からの連絡を受けて、お互いに話し合いをした上でどちらかが会社を休むことになる。もちろん、夫が自発的に自分の都合をつけて休むということもあるが、話し合いで決めるにしろ、一般的には家事・育児のために夫が会社を休むことなどほとんどない出来事であるため、このことに対して、対象者の妻たちはどう考えているのだろうか。「どっちが休む?」という話を夫に持ちかけること自体、気が引けてしまうということはないのだろうか。
「全然、全く」と笑いながら妻は言う。前項でもみてきたように、ケース2はすでに夫婦がお互いに家事・育児の主体となっており、家事・育児のために夫が休むこと自体「父親として驕る内容ではない」と述べているように、日常の中の当然の出来事でしかないのである。だから、質問そのものがとても単純なことに思えおかしかったのであろう。また、会社を休むこと自体「頼むこと」でも「頼まれたからやること」でもないと述べており、夫が家事・育児をすることに対するふたりの意識の高さが伺える。
逆に、ケース3では夫が仕事を休むことに対して「言いやすいことではない」と妻は述べている。しかしその理由は、相手が夫だから、男の人に会社を休んでまで家事・育児をさせるのは気が引けるというものではなく、「(夫は)仕事が凄い忙しいので、休ませると、翌日とか休日にしわ寄せが来るので」と述べているように、ジェンダーの意識とは全く関係なく、ただ純粋に翌日や休日にしわ寄せがいくのが嫌だからという理由である。 このように、本研究の対象者たちは家事・育児に対して、男も女も性別に関係なく一人の人間として関わるものだという、ジェンダーフリーな意識が非常に強い人たちであるということがいえる。 第2節 別の生活スタイルの選択彼らは今、夫婦で仕事も家事・育児もという新しい生活スタイルで生きているわけだが、もし、今とは違う生活スタイルを選択していたらどうなっていたのだろうか。また、次にもし選べるなら、今と同じ生き方を選ぶのだろうか。この節では、このような仮想の生き方をしていた場合の彼らの意見を聞くことで、彼らが伝統的な性別役割分業やジェンダーに対してどのような考えを持っているのかということを探っていきたい。 (1) 妻が専業主婦だったらまずは、もし妻が専業主婦だったら、夫は家事・育児に関わっていただろうかということについて語ってもらった。
まず、ケース1とケース3の「質問が成り立つかどうかっていうのは難しい」「想像できない」という言葉からも分かるように、夫婦で家事・育児をする前提条件として、「妻が働いていること」というのが強くあるので、たとえ仮想の世界であっても、妻が専業主婦であるという状況を考えられないという事実があるようだ。それでも、さらにお願いして考えてもらったところ、全てのケースにおいてしないだろうという回答があった。しかし、その理由は様々で、「もともとグーたらなほう」「しないですむならなにもしない」「(妻の収入の分まで)僕が残業して補う」「(家事・育児に)入り込む隙がなさそう」というものであった。特にケース1の夫の「しないですむならなにもしない」やケース2の夫の「帰ってきてご飯はできてて当然だとか、ゴロンとしちゃっても別に当然」と思うという語りは、一般の専業主婦を妻に持つ夫たちが考えていることと変わりはなく、決して彼らが仕事人間や専業主婦を否定的に捉えているわけではないことが分かる。ただ、それが男だからとか女だからとかいう理由であれば彼らはそれを否定するであろう。彼らの場合やらなければならない状況がそこにあったので、前節でも述べたようにそれが義務感となり、関わったというだけで、その状況がなければ「自分が楽しんでるであろう範囲内だけでやってる」「育児のおいしいとこどりくらいはする」「趣味で料理とかさせてもらう」という程度の関わり方であっただろうという、意外にも一般の多くの男性の現状と同じ状況を想像して語ってくれた。 (2) 夫が仕事人間だったらでは逆に、夫が全く家事・育児をしない仕事人間だったら、妻はどうしていたのかということについて語ってもらった。妻たちは専業主婦になろうと思ったであろうか。
「仕事をやめるという選択肢はずっとないんです」、「それはありえない」など、妻たちもまた、自分が専業主婦であることはあり得ないと語る。さらに、もし夫が仕事人間だったら、「離婚」や最初から「結婚しない」という厳しい意見を述べている。夫たちが、妻が専業主婦であったら自分が仕事人間であることを選ぶと前項で述べたのに対し、妻たちは夫が仕事人間であっても自分が専業主婦になることは決して選ばず、自分が働き続けられるであろう別の選択―離婚や結婚しないこと―をするのである。ケース1の妻もまた、自分が専業主婦であることを「不可能」だと言い、次のように語る。
「負担が私のほうばっかりに偏ってる」状態を「貧乏くじを引いている状態」と語る彼女は、夫を「リストラしようかと思ったこと」があるとも述べており、昨年から夫の仕事が忙しくなって、妻への負担が大きくなりつつあるケース1の妻は、仮想の話の中だけでなく現実に、夫のリストラ=離婚を考えた経験があるという。そして、「どんなに大変でも、お互いにわかちあってる、支えあってるっていう感覚があれば、我慢できる」と述べ、自分が働くことを前提として、それがどんなに大変でも自分だけが貧乏くじを引いている状態よりは我慢できると語っている。 このように、夫たちにとって働かない妻はいらないという選択肢はないが、妻たちにとっては、家事・育児をしない夫はいらないという考えがあることが分かった。ここには、妻たちの働きたいという社会的自立への思いと、それを肯定し応援する夫たちの思いが表れているが、夫から働かない妻とは離婚という思いが出てこなかったことから、本研究の対象者のような新しい分業スタイルでは、妻が働いていることという前提条件の上に、さらに絶対に働き続ける、専業主婦ではありえないという妻の強い思いが作用していると考えられる。この妻たちの働きたいという強い意志が、次項の質問に対する妻たちの語りでさらに明らかになる。 (3) 別の生活スタイルを選ぶなら最後に、お互いに家事・育児のメリットもデメリットも知った上で、次にもし選べるとするなら、あなたはどんな生活スタイルを選びますかという質問をしてみたところ、夫たちは揃って、大変なこともあるけど今と同じ事を選ぶでしょうと回答した。ただしそれには、妻がフルタイムで働いているということが大前提になっている。それに対して、ケース3を除く妻たちからは、次のような興味深い同じ内容の返答が返ってきた。
「子供がいなくて、自分に専業主婦のお嫁さんがいるっていう生活」、「パラサイトシングル」、「仕事人間」、「心置きなく仕事ができたらいいな」、「家庭をかえりみないで働けたらいいな」など、彼女たちから出てくる言葉は全て、自分が心置きなく、何を気にすることもなく働ける環境、子供を持たないという選択である。しかし、彼女たちはそういう選択を「する」とは述べず「憧れる」と述べていることから、それが選択不可能なものであると認識しており、今の自分の生活スタイルを現実として意識し受け止めた上で、その正反対に位置する生き方に不可能であるからこそ憧れを感じていると考えられる。夫たちが、このように「憧れ」を示さず、現実と同じ生き方を選択すると答えた裏には、夫たちにとっては妻の言うような、家庭をかえりみず心置きなく働く仕事人間という選択が、選択不可能なものではなく、むしろ現代日本ではもっとも選択しやすいものであり、自分たちはそれに反発することで新しい生活スタイルを生み出してきたので、今の生き方を最も支持するのだという思いがあると考えられる。また、中には心置きなく働きたいと思っている夫もいたのかもしれないが、それを口にしてしまうと、夫の場合「憧れ」というただの仮想の話しでは片付かなくなってしまうこともあり得るので、そういう理由から言えなかったということもあったのかもしれない。しかし、どちらにしても、妻の極めて強い仕事への熱意、働きたいという熱い思いが、全ての根底にあり、全てを左右する要因になっていることは間違いない。そしてそこには「僕もね、職場でキャリア系の女性のほうが好きですね」と述べているように、夫の中にも、妻に対して自分に依存して生きていく女性ではなく、人生の共同生活者として、対等の人格を持った自立した女性であることを願う気持ちがあり、それが後押しとなっているということもいえるであろう。 第3節 家事・育児への向き不向き一般的には、外で働くのは男の役目、内で家事・育児をするのは女の役目であるとする性別役割分業が、現代日本ではいまだ根強く残っており、あたかもそれが性別による向き不向きで決まっているのだと思われがちである。女性の社会進出が進むにつれて、外で働くことに対する向き不向きは問い直されつつあるが、家事・育児に対する向き不向きはまだまだ大多数の人が性別によると信じて疑わない。また「父性」や「母性」といった言葉を耳にすることがあるが、これも性別による向き不向きによって、親の中に存在する指向要素が二つに分類されてできたものであるが、「三歳までは母の手で」という三歳児神話が崩壊しつつあるように、これらの男として女として、また父親として母親としての性役割はもう一度問い直してみる必要がある。そこで、この節では、これらの性役割に依拠しないジェンダーを越境した生活をしている本研究の対象者たちに、実際に男も女も家事・育児を経験するなかで、これらへの向き不向きが、性別の違いによるものだと感じるかどうかを、実体験をもとに語ってもらうことにより、性役割や向き不向きについてここでもう一度考えてみることとする。 (1) 性別によらない対象者に、家事・育児への向き不向きが性別によるものだと感じるかどうかを聞いてみたところ、意見は2つに分かれた。一つは性別の違いを感じたことがないという意見で、もう一つはもしかすると性別の違いもあるのかもしれないという意見である。ここでは、まず前者の性別によらないという意見について分析していく。
ケース1の夫は、家事・育児への向き不向きは、「性別とは関係ないと思う」と述べ、さらに個人の資質による差はあるかということに対しても「一定の経験をやれば、大体できる」と述べている。つまり、家事・育児の向き不向きには性別による差も、性別とは関係なく個人としての差もないと感じているのである。家事・育児そのものが、大変なものではあるけれども、一つ一つの作業自体は意外と単純なものが多く、それほど技術を要するものでないため、これまでもみてきたように、最初のうちは「慣れ」が足りないことから夫のほうが質的に低いということはあるけれども、一定の経験を経ることで大半の作業は誰でもできるようになるので、結局は性別による差も個人差もないと考えられる。しかし、これらを夫は「物理的に作業として」と限定し「どうしても自分で産む経験はしていないから、産んだことによる何かそういう精神的な感覚的なものがあるのかどうかはわからない」と述べている。確かに、生物学的に「産む」という経験は女性にしかできないので、物理的な作業とは別に、そのことによる精神的な違いはあるのかもしれないが、それに対して妻は「あんまり自分自身母性って感じない」と言う。妻は娘を帝王切開で出産し、母乳もでなかったため、子供が「ただ泣いているだけの赤ちゃんのときは、子供のそばにいるのがつらかった」と言い、子供が可愛いと思えるようになったのは「コミュニケーションがとれるようになってから」だと語っているように、女性であり自らが子供を産んでいても、その子供に対して母性を感じないという経験をしている。子を育てるという意味において、母乳の出なかった妻は、物理的にも夫との差はなく、そのことが精神的な差をもなくしたのだということも考えられるが、最近、児童虐待などが問題になっているように、例え自分がおなかを痛めて産み、母乳をあげて育てた子であっても、その子に対して愛情を抱けない場合もあるし、また逆に、養子や代理母出産のように、例え自分が産んだ子でなくても、その子に対して自分の産んだ子以上に愛情を持てる事だってある。妻は「子供に対して、親が愛情を抱けるのは、手をかけて世話をする」からであって「自分が世話してもない子供に愛情なんか抱けるわけがない」と切実な思いを語ってくれたが、このことからも、子供に対する精神的な差は、子供を産んだことによって生じる性別の差ではなくて、どれだけ手をかけて世話をしたかということによって生じるものであって、例え父親・母親であっても手をかけて育てなければ、それは生物学的にオス・メスと証明しただけで「親ではない」のである。したがって、父親であっても手をかけ世話をし子供を育てたなら、その子に対して愛情を抱くことができ、オスではなく「親」であり得るのである。「男女を問わない」と妻が述べているように、精神的な差もまた、性別による違いではないといえる。 (2) 性別によるのかもしれないでは次に、ケース1とは反対に、家事・育児への向き不向きは、もしかすると性別によるのかもしれないという意見を述べたケース2・ケース3の語りをもとに分析していく。ここでは夫婦がお互いに話し合い、会話の中で結論を作っていくというやりとりがなされたため、少し長いがその会話の様子を中略することなく紹介する。
まず、ケース2では「うちは割りと、向き不向きっていうか得意なこととかも男らしい女らしいなんだよね」と述べている。このケース2は、3章で見てきたように、家事・育児分担が、唯一時間ではなくお互いの好き嫌いや向き不向きによって決まってきたというケースである。そしてその向き不向きによって決められた分担が、男らしい女らしいに一致していることから、家事・育児への向き不向きが性別の違いによるのではないかと考えている。特に3章の出来ない家事のところで、妻は「メカ的なこと」ができないと答えていたが、ここでもそのことを取り上げて語っている。家事・育児に夫が参加していない家庭でも、「メカ的なこと」は夫が得意であることが多く、学生生活の中でも、理系や機械系の学部には、男性のほうが多いということも確かな事実であるので、家事・育児の中でも「メカ的なこと」に関しては性別による向き不向きがあるとも考えられる。しかし、夫が不得意とする料理については、コックさんや板前という職業に男性が就いていることも非常に多く、男だから向いていないとは言い切れない。夫がこれらの差を性別の差ではなく、「職業柄」によると述べているのに対して、妻は「あなたは男の人が多い職場で、私は女の人が多い職場」だと述べ、やはり性別の差があるのではないかと主張しているが、今までの考察からして、これらはどちらも正しいといえる。「メカ的なこと」に関しては性別により向き不向きがあるけれども、その他のことに関しては「職業柄」など個人的資質により向き不向きがあるということであろう。特に、分担が好き嫌いによって決まっているケース2に限定して考えれば、自分の苦手な家事・育児については担当することがほとんどないため、「慣れ」は比較的生じにくく、苦手なものはいつまでも不向きなままであると考えられることから、それが性別による向き不向きへと発展していったのだと考えられる。ただ、妻が最後に「ご主人のほうが結構家事が細かいとかって話もきくから、まぁやっぱり個人の違いなんだろうけどね」と述べているように、ケース2に限定せず全体として捉えた場合には、家事・育児への向き不向きは、性別ではなく個人的な差だといえる。 では、ケース3の語りからも、向き不向きについて分析してみよう。
ケース3では、仕事と育児については「あんまり性別は関係ない個人の性質だと思う」と述べているが、家事については範囲を広げようと思えばいくらでも広げられるものであるがゆえに「広く浅く要領よく合理的にっていうのは、もしかしたら女の人のほうがうまくやれるのかなっていう気はしてる」と妻が述べ、さらに夫は実体験から「家事一個一個に関してはより丹念にやったりとかもできるんだけど、全体のバランスは、例えば買い物は全然任せてるっていうところとかで、一週間の献立がこういうバランスになってて、で、それをいつ、どのくらい買い物することでやっていくという、その流れはやっぱり難しいよ。何か難しいかな」と付け加えている。つまり、やりくりなど一定の時間の中で優先順位を決めながらこなしていかなければならないようなことに関しては、女性のほうが向いていて、男性は生物学的な違いからそれらのことに関しては向いていないということが考えられる。3章でも、妻は家事において「効率」を重視するが、夫は「成果」を重視する傾向があると述べたが、ケース3のこの語りは、この結果にぴったりと一致する。また、ホックシールド(Hochschild.A)はアメリカで行った研究の結果、「妻は洗濯物をたたみながら買い物リストを考えたり、幼い子供から目を離さないようにしながら掃除機をかけたりと、一度に二つ以上の家事をこなしているが、夫は夕食を作るか、あるいは子供を公園に連れて行くかのどちらか一つに専念している場合が多い」という特徴をあげており、このことからも、ケース3の夫婦に限らず、すべてにおいてこのようなやりくりや効率に関しては、男女の違いが存在するということが考えられる。したがって、ケース2の場合もそうであるが、家事全般や育児全般に対して性別による向き不向きがあるのではなくて、それより下位に存在する個々の家事・育児について、個人的な向き不向きに加え、性別による向き不向きも存在するのだということがいえる。 しかし、このことにはもう一つの側面があることも忘れてはいけない。山田昌弘によれば「家事・育児の大変さは、炊事、洗濯、掃除、世話といった個々の作業自体にあるのではなく、実際の作業の上位のレベルに存在する管理や監視といったメンタル的側面にある」という。つまり、ケース3のいうような冷蔵庫の中をチェックしながら買い物リストを作り、献立を立てたり、家計を管理したりということは、個々の作業よりもレベルが高く難しいことなのである。したがって、これらが出来るようになるためには、広く家事が見えるようになることが必要であり、それにはより一層の「経験」と「慣れ」が必要となってくる。つまり、家事・育児において夫が妻のレベルにまで達するには、子供の頃からの教育の差もあるので、相当な時間を要すると思われる。多くの場合、夫が家事・育児に参加していても、妻と同レベルにまで達していることは少なく、そのことが男女の違いとして向き不向きとなって表れたという側面もあるのではないだろうか。だとすれば、ケース3の場合も、夫が経験を重ねて家事・育児にもっと慣れることで、やりくりや効率の面での男女の差はなくなっていくものと推測される。 →おわりに |