現代の男・女のあり方や人間関係で大切なものは何かを考えるには、現代の始まりと考えられる近代の黎明期から考えてみる必要があるのではないでしょうか。
この時期の日本の代表的な思想家の一人に福沢諭吉がいます。福沢研究は、『学問のすすめ』に関する研究をはじめ数多くの成果が蓄積されています。しかし、福沢の『婦人論』や『男子論』が研究対象になることは少なく、なかでも彼の『男子論』の研究は極めて稀です。そこで私は、『日本男子論』の今日的意味の検討を試みたい、と思います。
彼は、冒頭で『男子論』を論じる意義を明示し、人間のあるべき姿に関する議論では、「自ら信じ自ら重んずる所」をもつことを論じ、望ましい夫婦関係論では、「相互に隔てなくして可愛がる」だけでなく、「夫婦互いに丁寧にし大事にする」という意味の「親愛恭敬」「敬愛の誠」「恕」を説いています。
武士の倫理であった「敬」の読み替えなどの思想的衝撃力は、当時の儒者にとどまらず「世人全般」に、私たちにも及ぶのでしょうか…。
まず、前半の一時間は、この分科会を企画するに至る主催者の自己紹介をして、自分史から語りはじめました。休憩後の後半は、現代の男・女関係を考えるため、近代日本の男女関係に論及している福沢諭吉『日本男子論』の主な四つの論点をとりあげ、参加者の皆さんと話し合いました。
具体的には、参加者自身の論点に対するイメージを、ほぼ全員に順に話してもらい、次に、直接福沢の原文を輪読して、福沢の議論の内容を福沢にそくして確認しながら、その上で討論の時間をもち、終盤には忘れ難い質問が出されました。
この分科会は、凡庸な表題で、それに、プログラムの参加呼びかけ文からは、福沢諭吉というセピア色がかった窮屈な話の内容が連想されたはずです。だから事前には、会場定員の20名の参加は難しいだろうと思っていました。
念のため、レジュメは、多めに30部+αのコピーを用意していました。ところが、実際には追加コピーを結局20部以上してもらい、予想を大幅に超える50人余りの参加状況になったのです。
オープニングの各分科会主催者による2分間スピーチの場で、この分科会に参加すると、男・女関係を思想史的に考える面白さが味わえ、岡山からの土産のマスカットが味見できるので、「二重の美味しさが楽しめます」(笑)と呼びかけられたことが、功を奏したのかもしれません。
実行委員長の豊田正義氏が、開会式で、「“私は”を主語にして、ゆっくりと語りはじめてください」と念をおしていました。ところが、センターの若菜多摩英所長まで参加されていたのに、結果的に駆け足で、アッと言う間に前半の60分が過ぎました。報告者と進行係を別々にするなど分科会を円滑に進める工夫が次回への反省点です。
なお、10分休憩は、呼びかけどおり葡萄(アレキ)の試食タイムにあて、「美味しい」と好評でした。
話しの流れが少し前後しますが、私自身が、日時が重なっていた分科会のなかで最も参加したかった分科会名は、「男性運動の先駆者たち トークセッション 男性運動の過去・現在・未来」です。この分科会に参加したかったのは、ゲストに魅力があったからです。
この分科会のゲストである、ますのきよし氏と伊藤公雄氏は、今回の分科会企画に至る前史というか、現在の私の問題意識と行動に決定的な影響を与えた人々です。
ますの氏は、「男も女も育児時間を!連絡会」(略称「育時連」)の創始者であり、大熊信行『生命再生産の理論』を読むよう私に勧める生真面目さの半面、寛容でユーモラスな精神の持ち主で、問題の多い私を育時連のなかで遇しつつ育ててくれました。会の初期・中期メンバーとして共に苦楽を分け合って活動し、4年余り育児時間を取得した期間中の私の悩みや愚痴を聞いてくれたりした、得難い先達であり仲間のひとりです。
そして、伊藤氏を初めて私が知ったのは、1988年2月発行の「現代男性論−男たちはどこへ向かえばいいのか」(『法学セミナー増刊』総合特集シリーズ40、これからの男の自立)という論説を通してでした。
そこで熱く語られていた、「自らの男としての性的アイデンティティそのものを検証し、再構築する作業は、女たちとの〔共闘〕を通じて、社会制度や文化そのもののラディカルな変革をともなう作業として、何よりも男たち自身の手で担われねばならないだろう」とする問題提起は、1989年の秋に読んだ上野千鶴子氏のインタビュー記事「メンズリブが必要だ」(『現代思想』vol.17−10)と併せて、その後、私にとって、聞き逃せない、見過ごせない、向かい合わざるを得ない課題になったのです。
とりわけ、上野氏が、育時連の男性たちに対して、「女性の領域に参加した男の抑圧と疎外」の問題化にとどまっている「根本的な限界」を指摘し、感性的な第一段階的な認識・問題意識への批判を突きつけ、「核心的な問題とは…マスキュリニティの規範性そのものなんです。それをどうして男はだれ一人、マジに議論しないんだろうか」と問いかけられたとき、私は自分なりに、何とかこの批判と問いかけに応えようと覚悟したものです。
この直後、私と連れ合いと娘は、子育て期と並行して徐々に決断を迫られていた老親問題に直面して、東京から岡山への転身・転居を経験しました。こうした紆余曲折を経ながら、1994年2月にスタートすることになった「岡山メンズリブ研究準備会」(当時の仮称、1994年5月からは「メンズリブフォーラム岡山」)の旗揚げ講演会では、「働き盛り、子育て期の男たち−今のままでいいのか−」をテーマにしました。この「岡山メンズリブ」の立ち上がりのときに、話題提供者として、講師役兼「助産夫」(人寄せパンダ=一般市民、研究者、老若男女60人余りが参加)役を演じてくださったのが、伊藤公雄氏でした。
まず、私自身、現代日本の男性論を検討するには、近代日本の男性論から歴史的に考えてみようと思い、私なりに見つけたのが、福沢諭吉の『日本男子論』でした。この論説に関する研究史の整理をしているうちに出会えたのが、“人間としてのあるべき姿と人間関係の原理論−『日本男子論』”という位置づけ(章立て)をした、「福沢諭吉における文明と家族(1)〜(3)」(『北大法学論集』第44巻第3号,第4号,1993年、第6号,1994年)〔新たな男性性・女性性・人間性のあり方を表現する、と同時に、男女(人間)関係において規範性をもつ、福沢の「敬」「恕」という道徳哲学に言及〕などの先行研究です。
「現代の男・女の関係を近代日本の男性論から考える」
* 私は共働きを前提に、自由で対等な愛情の通い合う関係を創っていこうと思う
まず、会場の年配の女性から、報告の途中で、「福沢の夫婦論は、一夫一婦制という限界があった」と指摘され、福沢には現代からみて限界があり学ぶものはないという福沢葬送派の意見が出されました。
そこで、レジュメにそって、福沢が夫婦間に「敬」「愛」と「恕」を説き、「君子の身の位」という個人の尊厳をもとに、「自由愛情論」を理想論として語っていたことを順次紹介したところ、この話には興味深げに耳を傾けていらっしゃいました。
また、中年の男性からは、「世間では、男性の抑圧的な加害者性が、男性問題化されるけれども、男性にも被抑圧的な被害者性があるのではないか」という問題が出され、「自分は家庭内暴力の被害者側」と告白があり、男性問題の二面性が確認されました。
分科会の終了間際に海妻径子氏から出された質問は、即答できる性格ではなく、印象的で考えさせられる内容でした。それは、なぜ今日的に可能性をもつ思想が、その当時、議論の主流となる広がりと深まりをもてなかったのか、という深い理解に基づく質問でした。
1919(大正8)年の与謝野晶子「寧ろ父性を保護せよ」にみられる父親論を検討した海妻氏は、晶子が「男女両性の差異をほとんど認めないジェンダー観に基づき、父親は母親と同等・同様に、子どもと直接的・日常的に情愛をこめた関わりをもつべきであると主張した」点を押さえ、「晶子の父親論は、ジェンダー中立的に“親であること”をとらえようとした先駆的な議論」であり、そして、「近年の議論においてはじめて指摘されたように感じられる視座が、既に80年も前に晶子によって示されていたこと」を評価しています。
1888(明治21)年に世人へ向けて提起された福沢の『日本男子論』の議論や福沢の男女関係論についても、晶子の父親論にみられた評価と似た評価と問いが生じてきます。それは、ジェンダー論の先駆的な議論や新たな理念が、既に当時の福沢の論説に確認されるからです。
それではなぜ、今日的に可能性をもつ思想を表現した福沢の議論が、その後の日本社会の主流となる広がりと深まりをもてなかったか。私は以下の問題があると思います。
[1]当時の内外の社会情勢で一身、一家、一国天下の何を優先するのかという問題
[2]一見、福沢の韜晦した議論に潜む現実論から理想論への段階的な時間差の問題
[3]後世から観て、福沢の時代的後進的階級的限界に眩惑され、可能性を見過ごす問題
これは難しい問題ですが既に与えられた頁数は尽きました。福沢の「敬」「恕」をいかに読み解き、読みかえていくのか、等々の課題と合わせて、暫く私の精神の旅はつづく…。
この会は呼びかけ段階で、98年5月から講座開始。講座+例会方式に徐々にしていこうとしています。
前史としては、94年2月から、98年2月まで「メンズリブフォーラム岡山」で講座+例会方式を中心に活動してきました。ここから、発展的に分離して旗揚げしつつあるグループです。
男女両性の問題に注目し、その気づきと解法を考えていこうとしています。男性問題を男女の「枠のないグラデーション」ととらえたいと思います。